この前、CHIGUHAGU先生とKOHEYに会いました。特にKOHEYはかなり久しぶりに会いました。僕的に会う準備ができたということです。自身に葛藤があったわけです。いろいろ。それが最近になって、ようやく割り切れた感じで。ふと、今思ったけど割り切れるっていう表現は面白いね。数字でもないのに、割り切れるって。状態なのに、割るって。
いきなり変な方向にいきそうだけど、以下にそれにCHIGUHAGU先生とKOHEYとの会話でおもしろかったKEYWORD書いて、それについて書きたいもの書きます。
お題っていうか、そのときに出てた単語は、
■じゃんけんの関係 ■変なガンマンの映画 ■ないこと→中心がないこと ■かたちのはなし ■武者震いする親父 ■主題とテーマ ■フラクタル図形とフラクタル関係 とかかな。他にもあったけど、そういうは各内容の中ででてくるかも。
じゃー、まとまったものの順に書いてきます。
■変なガンマンの映画
詳しい内容はCHIGUHAGU先生の頭の中にしまっておきたいから、ここではあんまり書かないけど。とにかく無茶強いガンマンがでてくる映画みたい。そのガンマンの強さについて聞いたところ、そこまでいわせんなよって言われたし。
■武者震いする親父
これは、僕的にCHIGUHAGU先生の言ってた言葉で一番ヒットした単語。先生曰く、集成材協会に電話したとき、下ってきた親父様が電話にでて、少しの事柄の説明に5分以上かけてバーっとしゃべる様らしい。その親父の息遣いとか雰囲気が武者震いする親父。これって、なんか親父特有のものな気がする。すぐキレル若者の対極に位置する。興奮してんのが、もれてて武者震いするみたいな。マジ切れる5秒前。
■かたちのはなし
これは、かなり長くなってしまう。結構いろいろ凝縮されてます。
建築におけるかたち。というか、モノが存在するにはかたちを持たなければならない。(液体、気体を除く。)そのかたちが形成されるプロセスで意味が付着するよという話。だった気がする。まず、前提としてかたちはかたち以外にも別次元のなにか文化的なものや意味を表徴するよねっていうことです。ここは同意。たとえばシンメトリーとか建築的には結構強い意味持っている気がします。素朴にあまり完璧にシンメトリーな立面とか書きたくないみたいな。
建築だったら、結構国を支配するお方の建築は強い意味を含めようとしている?アリベルト・シュペーアとか。シンメトリーとか異常にデカイとか、そういったことで建築におけるモニュメンタリティをそこに出現させるような。でも、そもそもシンメトリーは図形的に左右・広義で点対称なだけで、でかいのは大きいということだけで、そもそもモニュメンタリティっていうのは、含有していないはずなのです。じゃあ、僕たちがなぜにシンメトリーとかにそういったモニュメンタリティを感じてしまうのか。シンメトリーをなぜそういった意味で捉えてしまうのかっていうことになるでしょう?
と思うと、たぶん神殿とか教会あたりがくせーなーと。一応ヨーロッパベースで話を進めます。まず、神殿とか教会はさ、その場所自体にそういうモニュメンタリティというか荘厳でえらい場所っていう意味が社会的にあったわけです。その場所を収める建物としての神殿であり、教会である。と。ここら辺でシンメトリーとかにそういった意味が付着し始める原因があるんじゃねーか。と。ちょっと短絡的だけど、このまま読んでほしい。
で、神殿なり教会を建設にあたって、当時は石しか建材がなかったけど、やっぱり収まる場所が意味的に高次なものだから、大きいの建てたい。っていうことで、シンメトリー。採用されちゃいます。みたいな。つまり、建設技術が当時はまだなくて、シンメトリーにせざる得なかった&かたちについては幾何学しかなかった。
でも、幾何学しかなかったはもうちょっと、かたちと意味の関係を掘り下げると、象形文字とかまでいっちゃいそうなんでここでとめて、建設技術とかたちに話をフォーカスします。
石だけでデカイモノを建設→シンメトリーは力学的にも整合性がとれて、シンプルだから、当時としては建物をどうたてるかよりも、大きいの建てたい!っていう意思のほうを優先されるはずで、妥当性があるような気がします。現代でもやっぱりおんなじ問題あるよ。超高層とか。建物が超高いから、力学的制限が大きくてなかなか不思議なかたちが生まれない。と考えると、建築のかたちと技術の話は密接な関係にあるのです。
で、今後もずっと地球上に建築が立つ限り、重力との戦いは続くけど、建築と建設技術は、現代から振り返って、ここまで建設技術で、ここから建築って線引きできんじゃないか。と。
なんで線引きしたいかっていうと、どこまで建築やっていくうえで、見直すかっていう話。これ結構重要なんだよね。立ち戻りたい人と話すとき。つまり建築が歴史を積み重ねてきている上で、ずっと昔の決まりごととかを変えてあげたり、リファインすると、結構建築変わったりするから、根本をみなそうという話になるはずなんだよね。原理主義的に。そこで、どこまで立ち戻るか、もしくはどこからが建築?みたいなのを考えてしまうのです。僕の見解としては、ありきたりだけど、近代あたりが妥当だと思うんだよね。それは、さっきの建設技術がきっちりとかたちをサポートすることができるようになってきた。っていうことでしょう。つまりそこまでは、建築技術>建築(のかたち)だったのが、建築(のかたち)>建築技術。ということ。その背景にある、産業革命とかで、技術が爆発的に進歩しちゃって、建築(のかたち)に自由度をもたらしたわけ。たとえば、ガラス宮とか、エッフェル塔とか、ノートルダムヂュランシー教会(たしか鉄筋コンクリートの初めての教会)とかさ。もうすごい画期的なかたちだったと思うんだよね。当時としては。そこからが、現代的な、今僕たちが使っている建築あたりの起源として考えるのはどうかな。と。
そんな線を引こうとしているあたりが、CHIGUHAGU先生に建築FOR建築っていわれちゃうんだよね、きっと。それが良いか悪いかは、ここでは言わないけど。っていうか自分の考え方がそこの枠組みの中でつくられてしまっているのは事実。だと思うよ。
だいぶかたちの話からそれてしまったけど、僕が言いたいことは、「かたち」を問題にしたときに「かたち」だけの新しさを追求していかなくなるんだけど、そこで彫刻にいかに勝つかっつう話になってしまうんだよね。ここいら、かなり難しいんだけど、やっぱり勝負するなら彫刻に勝つ!みたいな。
で、かたちと意味の付着だけど、そもそも現代でそこまで強固に意味を付着させることできんのかなーって素朴に思うんだよね。結局意味論だったら、身体感覚抜けちゃうわけだし。それは建築FOR建築と同じ?みたいにおもうんだよ。
そして、かたちだけ取り出されてもわかんない。僕の場合、たとえばボリュームを検討したときに周囲との係わり合いの中で、こういう風になるから、このかたち。というような関係によってしか判断できないんだよ。
でも、その一方でかたちのつくる空間の面白さもあると思います。感覚的に。ザハのヴォルフスブルグのサイエンスセンターのピロティとか、グネグネして異常に大きくて、不思議に思うし。
んで、そういう形の身体感覚と配列の関係で建築を認識するっていう一見あいまみれないものをまとめれないかな。と。一応のスタート地点に「関係を経験する」っていうのを提案したいです。身体感覚っていうのは、やっぱり空間を経験するためのツールで、互換なんですよ。建築的には、広義の触覚と視覚なわけで。触覚はマテリアルの肌理とかスケール(でかい、小さい)とかそういうのも含んでます。それを考えるとなかなかすげーのが、「代田の町屋」とか。プランみてもらえればいいけど、動線的に一番奥にある一階の部屋が、視線だと路上まで抜けちゃって、動線と視線をつなぎ合わせると円環状の関係がうかびあがってきます。これって僕いままで考え方になかったんで、面白い。関係を経験する。
またかたちに話を戻すと、かたちと技術の関係は、今後もっと技術が進んで、3Dプリンターとか超安くなったり、作りたいかたち(ぐにゃぐにゃ形)とかがローコストにできたりするようになったら、四角い形をつくりつづけれるかな?ていうこと。もうスタディ模型が3Dプリンターで、作りはじめらすごいと思う。そしたら、僕もかたちについて考えようと思います。そんだけ技術が進んでんのに、まだ関係とか言っちゃってるの?て言われそうだし。でも、日本人は保守的だから、ほんとはかたちは受け入れられないと思うけど。
そして最後にかたちの放棄があると思います。もうとりあえず部屋は全部正方形とか単純な四角。で部屋同士も直で連結しないやつ。そうすると、つながりの関係もぶっ飛ぶでしょ?これねー、西澤弟スタイルな気がする。内と外と窓と部屋みたいに、それだけがプリミティブに登場してるんですよね。かたちに関しては、正方形、円とかの幾何学中心で。その意味は話しません。的な態度をとるんです。すると浮かび上がってくるのは、形式とか空間の見え方のみになってくるような気がする。素材感も消すし。どこまで建築をくずせるかとかで戦い始める。というような。もうなんか、かたちの話になる前に、もっと考えたいことあるよねーってな態度に見える。そういう意味でかたちの放棄。
以上、今回は三つ。結構考えたから、ながいねー。文章。次はじゃんけん、フラクタル関係、中心がないことあたりを書きます。
とりあえずよろしいでしょうか?